2014.10号 インドネシア編(2)

皆様こんにちは、株式会社コアブリッジの柳です。 今月号はインドネシア編の続きです。
6月号の”ベトナムの歴史”に続いて、インドネシアの歴史について、おもいっきり要約して記します。

東南アジア諸国の歴史の共通背景

インドネシアの歴史に触れる前に、アジア地域に共通する背景について簡単に触れておきます。

古代アジアの中での大国は、中国とインドです。共に四大文明のうちの二つ(インダス文明、黄河文明)ですね。この二国間で、陸や海を使っての交易が紀元前から行われていて、中間に位置する現在のASEAN地域も、交易の中継地点として機能していました。
また、インドはエジプトやヨーロッパ(古代ローマ等)とも交易をしており、古のヨーロッパ人からすると「インドまでは馴染みがあってもそれより東側は未知の領域」という感がありました。

14世紀頃にマルコ・ポーロの『東方見聞録』やイブン・バトゥータの『大旅行記』でアジア地域が紹介され、15世紀以降の大航海時代に入ると、欧州各国の船が東南アジア地域にまで進んできて香料をはじめ貿易が盛んに行われるようになります。その後、貿易にとどまらず、欧州列強は東南アジアの国々を植民地化していきます。

20世紀に入り、アジアの中で唯一欧米列強と肩を並べるようになった日本は、「欧米からアジア諸国を解放する」という大東亜共栄圏の構想のもと、東南アジア一体に進行し、欧米勢を排除し、日本の支配下に置きます。しかし3年程度で日本は敗戦・撤退します。
日本の敗戦直後は支配者がいない空白期間となり、被植民国にとっては独立をはたす絶好の機会です。多くの東南アジアの国々は独立宣言を出しますが、実質の独立とはいかず、この後戻ってきた旧支配者の欧米と戦い、本当の独立を勝ち取っていくわけです。

こんなおおざっぱな背景とともに、個別の国の歴史をお読みください。

インドネシアの歴史

インドネシアのジャワ島で”ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)”の化石が発掘され…というのはさておき、インドネシアは数々の島からなり、各地の民族が王国を立てて興亡してきました。先述の交易等により、西方から貿易品とともに宗教も入ってきます。王朝の入れ替わりや政治的要因などにより、浸透する宗教も仏教→ヒンドゥー教→イスラム教へと変遷していきます。

時は17世紀、ジャワ島にはオランダ(正しくはオランダ東インド会社)が侵入し、植民地化していきます。以降、スマトラ島など周辺の島もオランダの支配下に置かれ、20世紀には東インド諸島と呼ばれる周辺一帯がオランダ領となります。この頃は、現在のインドネシアは「オランダ領東インド」と呼ばれます。

植民地下のインドネシアは、過酷な労働、搾取、初等教育以上は受けられないなど、劣悪な環境を強いられます。このような状況下で、民族の一体化や独立が次第に叫ばれるようになってきます。後に初代大統領となるスカルノはその指導者の代表格です。 そんな中、アジアの中で唯一欧米列強と肩を並べるようになった日本が、東南アジア一帯に進行してきます。

太平洋戦争当時の日本は、経済や物資が滞り、特にエネルギーの供給が絶たれたことで深刻な状態に陥ります。石油等天然資源が産出されるインドネシアは重要な地です。日本軍は、これまでインドネシアを支配し劣悪な環境に置いてきたオランダを短期間で排除し、インドネシアを支配下に置きます。
日本軍は自分たちだけでは統治ができないため、当時オランダにより投獄されていたスカルノやハッタ(後の初代副大統領)という指導者を解放し、日本に協力するよう要請し、スカルノらもそれに同意します。
日の丸や君が代、皇紀(神武天皇即位を元年とする紀元)の使用、食料供出、労務者動員などの強制がありましたが、これまで強いられてきたオランダによる各種締め付けを緩め、教育の拡充、現地軍の整備なども行われます。

1945年、戦況が劣勢になると、日本はインドネシアに対して独立を促しますが、独立宣言がなされる前に、日本は8月15日に降伏してしまいます。インドネシアは8月17日に独立宣言を出し、スカルノが大統領に選出されます。

日本が降伏した後は、インドネシア支配を取り戻そうとオランダが再びやってきます。ここから4年間にわたってインドネシアの対オランダの独立戦争が行われます。この際には、日本軍の残存兵や武器がインドネシア側に大きな力になったと言われています。1949年にオランダはようやく手を引き、インドネシアの独立が正式に認められます。

ジャカルタにあるムルデカ広場(独立広場)。
その中心部にそびえ立つモナス(独立記念塔)。

独立がかなったとは言え、多くの課題が残っています。停戦・独立の条件として締結させられた不平等条約の解除、そして何よりも政治的にも経済的にも自立することです。

“建国の父”スカルノは、初代大統領として、広域かつ多民族の国家をまとめあげるため、分散している権力を自身に集中させて「指導される民主主義」を実践していきます。
内政面では、力を持つ国軍や勢力を拡大している共産党などとのバランスを取り、外交面では「反植民地主義」を掲げて西側諸国と対立姿勢を見せます。
後に外交政策が極端化して国際的な孤立を生み、経済は破綻寸前に陥り、さらには1965年9月30日に起きた「930事件」(※反スカルノ勢力のクーデターを防ぐという名目で起きたとされる陸軍将官殺害事件。その後、事件に加担した共産党の弾圧、華僑の虐殺にまで発展し死者が数十万人出たと言われるが、真相は不明)が決定的要因となって、21年間続いたスカルノ政権は幕を閉じます。

次の大統領には930事件を鎮圧したスハルトが就きます。スハルトはスカルノと真逆に西側諸国寄りの方針に転換し、経済発展を実現させます。
スカルノが政治に注力して国家建設を行った「建国の父」と呼ばれるのに対し、スハルトは経済成長を重視し「開発の父」と呼ばれます。スハルトの「開発独裁」と言われる体制は30年間続きますが、1997年のアジア通貨危機をきっかけに国民の不満が爆発し、デモや暴動が続発し、1998年に退陣します。
以降、ハビビ(在位1年5ヶ月)、ワヒド(1年9ヶ月)、メガワティ(3年3ヶ月)、ユドヨノ(10年:現職。2014/10/20に退任予定)と政権が移り今日に至ります。

今号は歴史ということでお固い内容になりましたが、次号はインドネシアの現地情報を中心にお伝えします。 では、また来月お会いしましょう。

※本文中の数値やURL等は執筆当時のものです