2015.10号 ミャンマー編(2)

皆様こんにちは、株式会社コアブリッジの柳です。
今号ではミャンマーの歴史について、いつものように思いっきり要約して記します。

王朝時代

現ミャンマーの人口の7割を占めるビルマ族は、古代に中国南部から南下してきたと言われます。
ビルマ族による最初の統一王朝は「バガン朝」です。バガン朝は初代アノータヤー王の即位(1044年)から、モンゴル帝国(元)に滅ぼされるまで(1287年)の約250年間続きました。このバガン朝時代に、上座部仏教が国教として定着し、400を超える仏塔が建立されます。現代のミャンマーのイメージの元は、この時に作られたものなのですね。

世界最大規模の仏塔”シュエダゴンパヤー”。高さ99.4m、使用されている金箔8,788枚、5,451個のダイヤモンドの他大量の宝石がちりばめられています。
シュエダゴンパヤーへの入口。狛犬のでかいこと!

バガン朝滅亡後250年間は複数の勢力に分裂しそれぞれが王朝を開きますが、16世紀半ばに「タウングー朝」がビルマを統一します。タウングー朝は、途中一時的に崩壊しますが、ほどなく再興され、200年続きます。
タウングー朝の後には「コンバウン朝」が続きます。
タウングー朝とコンバウン朝については、タイ編(2)の回で、アユタヤー王朝を征服した話としても出てきました。
コンバウン朝は過去最大の版図を獲得し、現在のミャンマーの領土の土台を作りました。
そしてコンバウン朝が最盛期を迎えた頃から、お隣インドを支配していたイギリスの圧力がビルマにかかり始めます。

イギリス支配時代

コンバウン朝はインド隣接部の領土問題をきっかけにイギリスとの戦争(第一次英緬戦争)をおこしますが、敗戦により領土を割譲します。英緬戦争は、原因は異なれど、三度に及び(1824年、1852年、1885年)、ビルマはその都度領土を削られ、最終的にビルマ全土がイギリスの領地になります(正確にはイギリス領インドに一州として編入される)。コンバウン朝は滅亡し、この後1948年に独立するまでの60年余り、イギリスの支配を受けます。
イギリスの狡猾かつ理不尽な植民支配にさらされ続けるうちに、ビルマ内にビルマ民族として独立しようとする運動が起き始めます。政治団体が結成され、分裂や統合がありながらもイギリスに対して自治を訴え続けます。
1920年にはビルマ人団体総評議会GCBAが、1930年にはタキン党(※”タキン”は”主人”の意。『ビルマの主人はビルマ人だ』という主張による)という政治団体が結成されます。タキン党は、”建国の父”アウンサンや、独立後初代首相のウーヌ、後に軍事独裁政権を築くネウィンらを排出します。
折しも第一次世界大戦後で、東欧を中心に被支配国が独立する機運が国際的に高まってきていたため、イギリスのビルマに対する態度も徐々に軟化してきます。立法や行政の権限をビルマ人に段階的に委譲し、イギリス領インドからイギリス直轄領に”格上げ”し、さらに「いずれビルマを自治領にする」と宣言します。
太平洋戦争期に入ると、日本軍がビルマに接近し、タキン党を支援し、日本軍に協力する現地人組織を作ろうとします。アウンサンらはそれに同調してビルマ独立義勇軍BIAを結成し、日本軍のビルマ侵攻作戦に協力し、イギリス軍の排除に成功します。しかし、日本軍占領下において、泰緬鉄道建設工事に代表される強制労働や一部の日本兵の暴虐など、塗炭の苦しみを味わい、日本軍に大きく失望します。アウンサンは反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)を組織して抗日闘争に転換、日本の敗戦色が濃厚になると今度はイギリスと呼応し、日本軍を排除します。
日本軍敗退後にイギリス支配が復活すると、アウンサンはパサパラの総裁としてイギリスと独立交渉を重ねます。9回の交渉を経て、イギリス政府はようやくビルマの独立を認めます。ビルマ統治にはパサパラのそしてアウンサンの政治的力量が必要であったこと、同時期にインドの独立問題も抱えていてビルマに軍を割けないこと、米ソ冷戦時代に入りビルマ内の共産党が反英勢力として増大することを防ぎたかったこと、などの背景があります。 ところが、念願の独立を実現目前にして、アウンサンは32歳の若さで政敵により暗殺されてしまいます。その首謀者の政敵はすぐに処刑され、アウンサンの後継者としてウーヌが初代首相に就き、1948年に完全独立をはたします。

独立記念塔。ヤンゴンの街の中心部にあるマハバンドゥーラ公園の中にそびえたっています。
建国の父アウンサンの名前を持つボージョーアウンサン通りとボージョーアウンサン市場(左の白い建物)。”ボージョー”とは”将軍”という意味。

独立後の自治にはどの国でも尋常でない苦労を伴い、ビルマも例外ではありません。建国間もなく共産党の武装反乱や少数民族の武装闘争が起き、それが収まると、今度は与党パサパラが分裂し混乱が極まります。
この制御不能状態に対して、ウーヌ首相は、国軍最高司令官のネウィンに政権を渡し(1958年)、事態の収拾を図ります。
一年半のネウィンの軍政により国内政情が落ち着くと、総選挙が行われ、再度ウーヌが首相に返り咲きます。しかし、総選挙時に行った軍政批判によりネウィンとの間に深い溝ができてしまいます。 政権復帰後もウーヌは国政をうまく運営できず、ついに1962年に国軍がクーデターを起こします。ここにウーヌ政権は倒され、ネウィンを議長とする革命評議会が全権を奪取し、軍政に移行します。

軍事独裁政権期

その後国軍は、ビルマ社会主義計画党(BSPP)を結成し、ネウィンが総裁となり、一党独裁のビルマ式社会主義を採ります。外資を追放して経済の国有化を進め、外交も最低限に抑え、外国からの介入を防ぎます。結果として、経済は深刻な不振に陥り、国連からは世界最貧国の烙印を押されます。
1988年に国民の不満が爆発し全国規模の民主化要求運動が起きます。軍はこれを武力で鎮圧しますが、ネウィンは退陣します。社会主義を放棄し、開発経済に移行しますが、依然として軍政は維持されたままです。
この民主化要求運動において、アウンサンの娘アウンサンスーチーが演説を行い、民主化運動の象徴となり、国民の期待を集めます。
1990年の総選挙において、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が圧倒的な勝利を収めるも、軍政側はこれを無視し、権力を持ち続けます。

民主化

2007年に前任者の死去によりテインセインが首相に就任すると、ようやく政治体制の改革が行われるようになります。
2008年の国民投票で新憲法案が可決されると民主化が押し進められます。
テインセインは軍から離脱し、自ら連邦団結発展党を結成し、20年振りとなる総選挙を経て大統領に選出されます。
アウンサンスーチーを含む、前政権で政治犯とされていた人々を放免し、不合理な法律や制度を廃止し、少数民族の反政府武装組織と停戦合意をするなど多くの改革を進め、他国からも評価されます。前政権に起因する他国からの経済制裁も緩和され、日本を始めとする多くの国の企業がミャンマーに進出し始めているのは周知の通りです。
来月2015年11月8日には総選挙が実施される予定で、その行く末が見守られています。

今回はこれで終了です。次号は現地の様子をお届けします。
ではまた次回お会いしましょう。