2016.01号 シンガポール編(2)

皆様こんにちは、株式会社コアブリッジの柳です。
今号ではシンガポールの歴史をお届けします。
シンガポールの歴史はマレー(マラヤ)の歴史と重なる部分が多いのですが、シンガポールの部分を抽出して、「テマセク、シンガプーラの時代」「イギリス統治時代」「日本軍統治時代」「独立後」に分け、例によって要約して記していきます。

テマセク、シンガプーラの時代

古くは三世紀頃の中国の史書にマレー半島南端の国として「羅越(らえつ)」という名称が出てきます。また、14世紀頃の古書には「テマセク(“海の町”の意)」という港町についての記述があります。場所柄船が多く往来し海賊がいる漁村、というようなものです。14世紀頃から「シンガプーラ(獅子の町)」という名前で呼ばれるようになりました(名称の由来は諸説あります)。
テマセク時代にせよシンガプーラ時代にせよ、この小さな町は、当時のこの地域の大国(マジャパヒト王国、マラッカ王国)の属国でした。
16世紀になると欧州列強が東南アジアに侵入し、植民地化していきます。マレー半島の支配者は、様々な経緯により、ポルトガル→オランダ→イギリスと移り変わってきます。そして19世紀になると、ラッフルズホテルで有名な”ラッフルズ”が登場します。

“黒い”ラッフルズ像。ビクトリア・シアター&コンサートホールの前に建っています。
もう一つ”白い”ラッフルズ像もありますが、こちらの黒い像が原型です。

イギリス統治時代

トマス・スタンフォード・ラッフルズ(Thomas Stamford Raffles)は、イギリス東インド会社の社員で、マレー半島、ジャワ島、スマトラ島に赴任し、第一書記官や副総統などを歴任してきた有能な人物です。ちなみに世界最大の花”ラフレシア”の名称は彼の名前に由来するものです。
ラッフルズはインド洋と太平洋を結ぶシンガポールの地理的な重要性を誰よりも先に見抜き、1819年にシンガプーラに上陸し、この港町を支配する首長に談判し、英国商館を建設してこの町を運営する権利を得、その後割譲を受けます。それまでは漁民と海賊のいる小さな港町にすぎなかったこの地を、関税のない自由貿易港にするべく様々実行し、名称も英風に”シンガポール”に変更します。ラッフルズの活躍により、この後140年に渡るイギリス統治の礎が築かれました。
1824年には、東南アジア貿易で競い合っていたイギリスとオランダの二国間で条約が結ばれ、マラッカ海峡を境にして東側(マレー半島)がイギリス領に、西側(スマトラ島)がオランダ領になります。イギリス領となったマレー半島のうち、西南部(インド洋側)に位置する、航海の要所であるペナン、マラッカ、シンガポールなどを”海峡植民地”とし、シンガポールはその首都となります。
自由港で船舶の行き来が大いに盛んになり、著しい経済成長を遂げ、労働力も必要とされるとなれば、周辺のインド、中国、マレーから大勢の人が流入してきます。これにより、現在の多民族国家が形成されます。

日本軍統治時代

イギリスは東南アジア植民支配の拠点としてシンガポールに陸海軍を駐留させ、難攻不落の要塞を築いています。
1941年に太平洋戦争が始まると、日本軍がマレー半島を制圧しながら侵入し、わずか10日足らずでイギリス軍を追い出しシンガポールを占領します。ここから日本軍による軍政が布かれます。日本軍占領下ではシンガポールは”昭南島”と呼ばれます。
当時日中戦争の最中でもあった日本軍は、特に中華系住民の反抗を恐れ、反日の華僑を無理矢理あぶり出して処刑します。その数は不明ですが、数千から数万人と言われています。
現在、シンガポールのマーライオン公園から少し歩いた所に戦争記念公園があり、園内には”日本占領時期死難人民記念碑”という高さ70メートル弱の塔がそびえ立っています。虐殺された華人の鎮魂とこのような惨劇を二度と繰り返さぬようにと、シンガポールと日本の両政府により建てられた慰霊塔です。

日本占領時期死難人民記念碑。
4本の柱からなり、それぞれ中国人、マレー人、インド人、ユーラシア(ヨーロッパとアジア)人を表します。

独立後

日本の敗戦後、イギリスがこの地域の植民支配を再開しますが、大戦で痛手を負った宗主国に統治を維持する力はありません。段階を経て自治権を認め、1957年にマラヤ連邦(マレー半島の連邦国家。シンガポールは含まれない)が独立し、シンガポールは1959年に完全自治領となります。1963年にはマラヤ連邦とシンガポール、ボルネオ、イギリス領サラワクが合併してマレーシア連邦を結成し、イギリスの手から離れます。
マレーシアに移行してからも難題が続きます。マレーシア中央政府はマレー人優遇政策を取ろうとし、中華系人民が多数を占めるシンガポール側はそれに反発し対立が起きます。結果として、中央政府に従わないシンガポールを追放せざるをえない状況となり、シンガポールは望まぬ形でマレーシアから分離独立しました。1965年のことです。
国土が小さく、資源や水源にも乏しいシンガポールの運営は絶望的です。しかし、独立後初代首相のリー・クアンユーは煩悶しながらも強力なリーダーシップを発揮し、国連参加、ASEAN結成、外国企業誘致など次々に手を打っていきます。折しも1960年代からシンガポールの主要産業である貿易と金融が急成長したことも後追いし、目覚ましい経済発展を遂げて先進国の仲間入りをし、今日に至っています。

今回は以上で終了です。次号では現地の様子をお届けします。
ではまた次回お会いしましょう。