2016.10号 マレーシア編(2)

皆様こんにちは、株式会社コアブリッジの柳です。
今号ではマレーシアの歴史をお届けします。

マレーシアの歴史は、支配者が何度も替わったり、他民族国家であるために複雑な経緯をたどるのですが、例によって思いっきり要約して記します。

マラッカ王国

マレー半島は古くからインドと中国(さらに言うと欧州と中国)を結ぶ東西交易(海のシルクロード)の経由地にあたります。
交易の船隊がマレー半島の西側にある”マラッカ海峡”を通過するため港市が発展する環境にあります。
14世紀末から15世紀初めにマラッカ王国(ムラカ王国)が成立し、マレー半島とその南側のスマトラ島の東岸地域を支配します。
マラッカは、当時の中国”明”に朝貢しながら、交易都市として大いに栄え、周辺の王国を従え、人口も大幅に増えてきます。

マラッカ海峡。右手前に伸びているのはマラッカ川。
マラッカ川のほとりに建っている、朝貢貿易の使節として明から派遣された”鄭和将軍”の石碑。

大航海時代:ポルトガルの侵攻

15世紀の欧州列強の大航海時代に移ると、ポルトガルとスペインは競い合うように海に乗り出し、東西逆の経路で海路を開拓します。
マラッカには16世紀初めにポルトガルがやってきて、東西貿易の経路としてマラッカを我が物にしようとします。マラッカは抵抗しますが、大砲を装備した船16隻で襲来されたら敵うはずがありません、1511年に占領されてしまいます。
1641年に後からやってきたオランダから追放されるまでは、ポルトガルがマラッカを支配します。

ポルトガルからオランダへ

ポルトガルは、マラッカを経由して西から東に抜けて香辛料諸島と呼ばれたマルク諸島(モルッカ諸島)までの航路を独占しましたが、競合するスペインや、少し遅れてやってきたオランダとの対立が激しくなります。
結果として、この海域においてはオランダが優勢となり、マラッカはオランダの支配下に移ります。
なお、後にマレー半島を支配するイギリスは、この頃マレー半島の北西、マラッカ海峡に浮かぶペナン島を占拠し、初のマレー入りを果たします。

マラッカの街並み。
砦跡。手前にあるのはオランダとの戦いに備えるためにポルトガルが設置した大砲。

イギリスとオランダ

オランダは交易航路を独占するも、18世紀後半には本国の状況により、イギリスに一旦引き渡すことになります。
フランス革命後、ナポレオンの時代に、オランダがフランスに併合され、その時フランスの同盟国であったイギリスにオランダの植民地が移譲されたためです。
しかし、この後状況が目まぐるしく変わり、結果的にそれらの植民地はイギリスからオランダに返還されます。
イギリスとオランダとの間には1824年に条約が結ばれ、マラッカ海峡より東側はイギリスが、西側はオランダが支配すると合意します。
現在のマレーシアとインドネシアの国境はこれに由来するわけです。

イギリス支配

イギリスは条約により手に入れたマレー半島を”英領マラヤ”とし、特にシンガポール、ペナン、マラッカを”海峡植民地”として自由貿易港(関税のない港)として運営します。
また、この半島で採れる錫(スズ)の鉱山開発や、胡椒、さとうきび、コーヒー、ゴムなどの農園を経営します。
錫は缶詰のブリキ(鉄板を錫で覆ったもの)の材料として、ゴムは自動車製造時に使われるため需要が大きく、後に二大輸出品となります。
鉱山開発や農作物の生産が盛んになると、労働者や商人として中国やインドから多くの人が流入してきます。
鉱山開発には、労働力や資金の調達ができる組織を持った中国人が集まります。一方、ゴム農園にはインド人が集まります。
マレー半島には、主にマレー人、中国人、インド人が居住していましたが、このように職業が異なり、住む場所も分かれ、交わることがあまりなく、文字どおり住み分けていました。

日本軍支配

太平洋戦争期になると、日本軍がマレー半島を占領し、軍政を敷きます。
日本軍の現地調達により、深刻な食糧や物資の不足が起きます。さらに日中戦争下のため日本軍は中国人を警戒して逮捕・虐殺や献金の強要を行い、一方でマレー人やインド人に対しては懐柔を行います。
この頃、東南アジアでは、中国共産党の指導のもと、各国で共産党が結成され、マレー半島では、主として中国人で構成されています(マラヤ共産党)。
中国人を敵視する日本軍政に対して、マラヤ共産党はゲリラ活動で抵抗します。

イギリスの再支配

日本の敗戦後にはイギリスが再び戻ってきますが、戦争で疲弊したイギリスに植民地運営の力はなく、徐々に独立へ動き出します。
主要三民族(マレー人、中国人、インド人)が混在し、小さな王国が集まった”連邦”の運営はただでさえ困難です。イギリス植民地政府は、色々な経緯により、マレー人を中心とした”マラヤ連邦”を成立させます。
マラヤ連邦ではマレー人に種々の特権が与えられるため、これに対して中国系住民は反感を持ち、マラヤ共産党が武力蜂起し、ゲリラ戦を展開します。
植民地政府は1948年に非常事態宣言を行い、これがようやく解除されるのは1960年です。
この1948-1960のマラヤ共産党による暴動は”マラヤ危機(Malayan Emergency)”と呼ばれ、死者や多くの逮捕者、中国への強制送還者などが出ます。

クアラルンプール(KL)にある独立広場。高さ100mの国旗掲揚塔は世界最高。
同じくKLにある国家記念碑。大戦やマラヤ危機で犠牲になった人たちのために1966年に建てられたものです。

独立へ

マレーシアのイギリスからの独立は段階を経て実現されます。
1957年に、まず、シンガポールを除く英領マラヤがマラヤ連邦として独立をはたし、1959年にシンガポールが完全自治に移行します。
1963年にはマラヤ連邦、シンガポール、イギリス直轄領のサラワクとサバ(ともにボルネオ島にある地域)が統一して”マレーシア”が建国されます。
1965年にシンガポールがマレーシアから分離独立し、現在のマレーシアの体制となります。
他国と異なり、支配国との間の独立戦争はありませんが、欧州列強や日本の支配の後、先述のマラヤ危機を乗り越え、多民族国家ならではの”政治”に苦慮しながら現在に至ります。

今回は以上で終了です。
ではまた次号でお会いしましょう。