2019.08号 マカオ編(2)

皆様こんにちは、株式会社コアブリッジの柳です。
今号では、マカオの歴史について触れます。
マカオと同様に中国の「一国二制度」の対象となっている香港は、アヘン戦争の”戦利”としてイギリスが中国から奪い取ったのに対し、マカオはポルトガルと中国が共存してきたという点に大きな違いがあります。
また、16-17世紀に行われたポルトガルと日本との間の”南蛮貿易”は、マカオを拠点として取引が行われていました。あわせて、キリスト教布教の拠点でもあり、我々にもなじみのある”フランシスコ・ザビエル”もマカオを経由して日本に来ています。このように、日本とマカオには深いつながりがあります。

ポルトガルの貿易

マカオを構成するマカオ半島、タイパ島、コロネア島のうち、この400年あまりの間の歴史に登場してくるのはマカオ半島のみで、タイパとコロネアは住民もほとんどいない小さな島でした。
香港の対岸にあるマカオ半島は、海運の利便性が高い場所にあり、ヨーロッパーインドー中国を結ぶ貿易の中継点に位置しています。
マレーシア編(2)で触れていますが、ポルトガルは、16世紀初めにインドのゴアを攻略後にマレー半島西側のマラッカを占領し、そこから東に進んで香辛料諸島のマルク諸島(モルッカ諸島)に到達し、翌年には中国にも入ってきます。

中国に入ってきた最初の人物”ジョルジェ・アルヴァレス”の像。後述の”十二・三事件”時にデモ隊により壊されます。

ポルトガルは中国(当時は”明”)と国交を開くべく使節団を派遣しますが、中国側の拒絶により追い出されてしまいます。このため中国南方の広東省に引き下がって密貿易を行い、この地にとどまります。種子島にポルトガル人が漂着した背景でもあります。
この頃、中国の沿岸部は海賊(倭寇)に悩まされており、ポルトガルは海賊退治に手を貸します。これにより、ポルトガルは租借料を払うことでマカオに居住することを許されます。
当時、ポルトガルがアフリカやアジアに侵入する際には必ず武力が伴っていましたが、マカオと日本(長崎)だけは例外的です。
マカオと中国本土との間には細い陸路があり、中国人がそこに関門(關閘)を設置しました。この門を閉ざされてしまうと、半島のマカオは孤立してしまい、食料すら調達できなくなります。必然、ポルトガルは中国と共存の道を選ばざるを得ませんでした。ポルトガル人が日本において長崎の出島に居住していたのと類似しています。

現在の關閘。中国との国境で、陸路の入出国の施設です。昔の門が”オブジェ”として残されています
空港とよく似た施設です

この頃、中国と日本の間では倭寇の存在により公には貿易をしていませんでしたが、ポルトガルが中国の生糸や絹織物を日本の銀と交換する、という仲介役を担っていました。日本で得た銀を中国に売ることで二度利益が得られるため、マカオのポルトガル商人は巨額の富を築きます。

ポルトガル対オランダ

上述のように、香辛料諸島や日本との貿易により躍進の一途だったポルトガルでしたが、遅れてアジアに侵入してきたオランダに、ポルトガル領のマラッカや香辛料諸島への海路を奪われます。
オランダはマカオにも手を伸ばし、1601年に海上戦が行われ、ポルトガルはオランダ船を撃退します。しかし、翌年と翌々年にはオランダ艦隊に交易船を奪われます。
1607年にはオランダ艦隊がマカオ海域を封鎖したことにより、ポルトガルは日本に貿易船を出せない状況が続きます。折しも、日本側は幕府が鎖国政策を進めた時期と重なり、また、オランダも長崎の平戸に商館を開いて日本との貿易を行うようになり、ポルトガルのマカオ経由の日本貿易はしぼんでいきます。
オランダは執拗にマカオに攻め込み、1622年には艦隊を派遣してマカオに上陸しますが、ポルトガルは要塞から砲撃し、オランダを撃退します。
1627年にもオランダは再び艦隊でやってきます。これもポルトガルは辛くも追い払い、マカオを死守します。

モンテの砦にある大砲。砲弾がオランダ軍の火薬樽に命中し、オランダ軍が総崩れしたと言われています

マカオの獲得

前述のように日本との貿易が終焉し衰退の一途をたどったマカオでしたが、十八世紀後半に、貿易の中継地として再び機能し始めます。ヨーロッパ諸国が中国(清朝)との広東貿易(清が外国との貿易を広東港でのみ許可した)の拠点として使われるようになったためです。
19世紀になり、アヘン戦争の敗北により中国(清)がイギリスに香港を割譲すると、その流れを受けてポルトガルもマカオを獲得し、自由港とします。もっとも、貿易港としての地位は香港に奪われます。
1887年に、ポルトガルは清との間に友好通商条約を結び、マカオの永久統治権を認められます。しかし、ポルトガルが得たのは「統治権」で、主権は清が有しており、清の意向が多分に通るものでした。

戦後のマカオ

ポルトガルは第二次世界大戦では中立国の立場を取ったため、マカオも中立港と位置付けられ、太平洋戦争下に日本軍による占領はなく、経済的に活況を呈します。
1966年、十二・三事件と呼ばれるマカオ暴動(文化大革命をきっかけとして起きた、中国共産党系住人とマカオ政庁の対立。警官隊がデモ隊に発砲して死者が出た)が起き、当時国力が低下していたポルトガルには、暴動の収拾にあたって、中国(中華人民共和国)の要求を全面的に受け入れざるを得ず、これを機に中国の影響力が増大します。
1987年、中国ポルトガル共同声明を発表し、マカオの中国への返還が合意されます。
1999年にマカオが返還され、一国二制度が適用される中国の特別行政区となり、今日に至ります。

マカオ編は以上で終了です。
ではまた次回お会いしましょう。

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