2015.05号 タイ編(2)

皆様こんにちは、株式会社コアブリッジの柳です。
今号から二回に渡ってタイの歴史をお届けします。
タイは欧米や日本による支配を免れた東南アジア唯一の国で、絶対君主制から立憲君主制に移行したという点では日本との共通点があります。
一方で、途上国を脱した今でも軍によるクーデターが起き、しかもかなりの確率で成立するという特異性も持っています。
ASEAN諸国の中でも異色なこの国の歴史について、今号では歴代王朝の変遷を中心に記していきます。

タイ史に記される4王朝

現在タイ人と呼ばれる民族(タイ族)は、中国南部やベトナム北部から南下してきたと言われています。
自らの国家ができるまでは、古代カンボジアのクメール人による王国アンコール王朝(9世紀〜15世紀)の支配下にありました。
タイの国家(王朝)として歴史に記されるのは以下の4つです。

  • スコータイ王朝(13世紀〜15世紀)
  • アユタヤー王朝(14世紀〜18世紀 ※スコータイ王朝と併存します)
  • トンブリー王朝(18世紀中の15年間)
  • チャクリー王朝(18世紀〜現在。ラタナコーシン王朝またはバンコク王朝とも呼ばれます)

いずれもタイの国土を南北に流れる大河チャオプラヤーの流域に都市を築きました。

チャオプラヤー川。以前は”メナム川”と言われました。
“メナム(メーナーム)”はタイ語で「川」という意味(メーが母、ナームが水。水の母=川となる)で、タイ人が “メーナーム・チャオプラヤー” と言ったのを外国人が早とちりしたのですね。

スコータイ王朝成立以前にも、もちろんタイ族(シャム族というべきか)は居住していました。
当時は小規模な部族が多数存在し、それぞれが”ムアン”と呼ばれる集落を作っていて、力の強いムアンを中心に集まり、共同体を形成していました。

最初の王朝スコータイ

13世紀中頃、アンコール王朝で後継者争いが起こり支配力が弱まった隙に、タイ人がクメール人太守を追い出して、スコータイ朝が建てられました。
当時チャオプラヤー川流域には多数のムアン(集落)が存在していたと先に述べましたが、スコータイ朝はこのようなムアンの巨大連合体のようなもので、三代目のラームカムヘーン王の時代に最盛期を迎えます。同王の時代に、現在のタイの領土を網羅するほどまで版図を広げました。スコータイがタイの歴史の中で最初の王朝とされるのはそのためです。
なお、ラームカムヘーンの治世に、スリランカから入ってきた上座部仏教が国教となり、タイ文字が作られました(※諸説あり)。タイ編の第一回で記したように、タイ文字は表音文字ではあるものの修得が大変で、私がタイ文字の勉強に読んだある書籍のコラムには「タイ文字への不満はラームカムヘーン王に言え!」と書かれていました…
タイにおける国王は、国民の父たる存在であり、かつ、国教である仏教を庇護する役割を担います。この伝統はラームカムヘーン王に始まるものです。

ちなみに、
「ラームカムヘーン王(スコータイ朝第3代王)」
「ナレースワン王(アユタヤー朝第21代王。後述)」
「チュラーロンコーン王(チャクリー朝第5代王。次回登場)」
がタイの三大王として崇められています。
三人ともタイの大学の名前になっていて、チュラーロンコーン大学はタイの最高学府、ラームカムヘーン大学は誰でも入学できる懐の広い(?!)公開大学として知られます。

400年続いたアユタヤー朝

14世紀中頃には、スコータイ朝の権威が及ばない南の地域でアユタヤー朝が興ります。
北のスコータイに対する南のアユタヤーという構図で、勢力争いの末、スコータイはアユタヤーの属国になります。ムアン連合体のリーダーがスコータイからアユタヤーに移ったというわけですね。
後にアユタヤー朝は、衰退したスコータイ朝を併呑し、アンコール朝も征服し、マレー半島をも勢力下に置きます。
16世紀になると、隣国ビルマ(現ミャンマー)にタウングー朝が勃興し、強大化してアユタヤーに攻め込んできます。アユタヤー朝はタウングー朝に制圧され、王朝としての存続は認められるものの、一時的にタウングー朝の属国となります。
ここで、先に三大王の一として名前を挙げた、救国の英雄ナレースワンが登場してきます。
軍術に秀でるナレースワンはビルマ軍を再三にわたって撃退し、ビルマの属国という立場から脱却することに成功し、アユタヤー王国を復活させます。その後も領土をタイ史上最大規模に拡大し、中央集権化を進めました。
余談ですが、ナレースワンはタイ式キックボクシング”ムエタイ”の創始者としても知られます。

アユタヤーは、地理的に海(タイ湾)に近いこともあり、チャオプラヤー川流域の交易にとどまらず、中国、インド、ヨーロッパの貿易の拠点として多いに栄えました。外国船が往来し、外国人街があちこちにできます。
タイ人は有能な外国人を活用することに積極的で、ヨーロッパや日本の能吏を次々に登用します。日本人では山田長政がつとに有名ですね。
山田長政は、朱印船貿易の商人としてアユタヤーに入って商業活動を行っており、あわせて日本人義勇兵の隊長として高く評価されました。当代の王から信認され、軍事と経済の両面で重要な役割を担い、最高の官位と欽賜名(王自ら与えるタイ人としての名前。この名前を使えばタイ人と区別がつかない)を得るほどになります。
しかし、仕えた王の死後、王位継承騒動に巻き込まれて毒殺され、しかも日本が鎖国を開始した時期とも重なり、アユタヤーの日本人町は自然消滅してしまいます。

アユタヤー遺跡。バンコクから車で1時間半ほどの所にあります。
大半の仏像は首から上を破壊されており「何てひどいことを」と胸が痛くなります…

一代限りの王朝トンブリー

アユタヤー朝にも終わりの時がやってきます。
18世紀に再びビルマ(コンバウン朝)から侵攻を受け、町は徹底的に破壊され、400年以上続いた歴史の幕をここに下ろします。
ビルマはアユタヤーを攻略したものの、中国(清)との関係が悪化し、軍の大部分を引き揚げざるを得なくなり、旧アユタヤー本土に隙が生じます。
各地でビルマ軍を追放しようとする勢力が発生し、一地方の領主であったタークシン(※元首相のタクシンとは綴りが異なり、何の関係もありません)が連戦によりビルマ軍の排除に成功します。
タークシンはアユタヤー本土を取り戻しはしましたが、廃墟と化した旧都を見限る決断をし、南方のトンブリー(バンコク)に移り、自ら王となってトンブリー朝を興します。
戦う王タークシンは敵対する勢力を武力で次々に攻略し、タイのみでなく周辺のラオス、カンボジアも支配下に置きます。
しかし、晩年に暴虐な奇行が増え(※それが事実かは不明)、最終的には処刑され、同時にこの王朝も終わりを迎えます。
わずか15年間、一代限りの王朝でした。

そして現王朝へ

タークシン処刑後、その配下であったチャクリー将軍(後にラーマ一世と改名)が新たにチャクリー王朝を興します。
これが現在のバンコク王朝、別名ラタナコーシン王朝です。
現プーミポン・アドゥラヤデー国王はその第九代にあたります(ラーマ九世)。

今回は以上で終了です。次号はタイの歴史の続きをお送りします。
では次号でまたお会いしましょう。