2015.07号 タイ編(3)

皆様こんにちは、株式会社コアブリッジの柳です。
今号では引き続きタイの歴史をお届けします。
タイはどのように独立を維持し絶対王制から立憲君主制に移行していったのか、現王朝で近代化を経て現在に至るまでを、例によって思いっきり要約して記します。

脅威はビルマから英仏へ

前回記したように、タイ(当時はシャム)にとっての脅威は隣国ビルマ(現ミャンマー)でした。
しかし、現王朝に移行してしばらく経つと様子が変わります。
19世紀には、三度の英緬戦争(イギリス-ビルマ戦争)を経てビルマはイギリス領となり、ベトナムはフランス領となります。
イギリスはマレー半島の南側も支配下に置いています。
中国(清)は、イギリスには阿片戦争で、フランスには仏清戦争で敗北します。
タイの周辺国はすべて英仏二国により武力で征服されてしまったわけです。
タイも大きな圧力を受け、フランスにいたっては軍艦を首都バンコクに乗り入れてきます(1893年パークナーム事件)。
この未曾有の危機を、タイは領土を割譲することで乗り切ります。
タイの属国であったラオスとカンボジアをフランスに、マレー半島北部の4つの州をイギリスに移譲します。
この時譲り渡したのは、タイの領土の実に半分におよび、文字通り身を切ることで独立を維持したのです。

ラーマ五世チュラーロンコーン王の近代化改革

英仏による侵略を何とかしのぐことができたのは領土割譲によるだけではありません。
地理的にタイがビルマ(イギリス領)とベトナム(フランス領)の間に位置し、英仏が衝突を避けるための”緩衝地帯”になっていた、というがまず一つ。
が、それ以上に、この当時タイはある程度近代化が図られていて、列強が植民支配するには支障があったこと、さらに、タイが外交によって条約締結による解決のための下地を作っていったということが挙げられます。
タイ史上最も困難と言ってよいこの時期は、ラーマ五世チュラーロンコーン王の治世でした。チュラーロンコーン王は、「中央集権化」「官僚養成や庶民教育のための学校の設立」「徴兵制による近代的軍隊の整備」「鉄道の導入」「専門知識を持つ外国人の積極的登用」などを次々に行い、近代化を進めました。
英仏との条約締結や過去の不平等条約の改正の裏にはこのお抱え外国人の活躍があり、その下地が作られていたわけです。 前回、アユタヤ朝において外国人官吏が積極的に使われていた、と述べたように、タイでは色々な国の人間を活用し、各国の良い所を吸収するとともに、バランスを取りながら各国を競わせることで自国により良い条件を引き出そうしてきました。
この”バランス感”は、この後の二つの世界大戦における処世でも発揮されます。

二つの世界大戦で見せた処世術

第一次世界大戦が勃発すると、タイはまず中立を宣言し、戦況をじっと観察します。米国が大戦に加わり連合国が優勢と見極めるや、タイは連合国側として参戦し、結果として戦勝国に加わります。
そしてこの立場を利用して、過去に締結させられた不平等条約の改正を行うなど、見事な(?)処世術を見せます。
第二次世界大戦でも同様に、当初は中立を宣言し、自国に有利な状況を作ろうと戦局を見ています。
苦しい状況のフランスに、以前割譲した領土周辺の国境線見直しを求めたり、それを有利に進めるべく、米国、英国、そして日本と接触したりもします。米英と日本は敵国ですから、タイは二重外交を行ったわけです。
1941年に日本が東南アジアに進軍すると、タイは日本と軍事協定を結び、連合国側に戦線布告をしますが、意図的に不備のある署名を行い、「不本意ながら日本に従った」という演出をします。
日本が敗戦するやいなや、タイは「あの宣戦布告は強制されたものであり、憲法上も無効である」と主張します。英国との間の戦後処理はあったにせよ、最終的には米国に宣戦布告の無効が認められ、戦争責任を問われることは辛くも免れ、国際社会にも早い段階で復帰します。まったくもってしたたかと言わざるをえません。

戦勝記念塔。タイ語では”アヌサーワリーチャイ”。1940年に起きた、タイとフランスの国境紛争での戦死者を慰霊するために建てられました。紛争でフランスに勝利したわけではありませんが、過去にフランスに割譲した領土が返還され、”失地回復”したことを”戦勝”と表現しています。

絶対王制から立憲君主制へ

ラーマ七世プラチャーティポック王の時代に、タイは絶対王制から立憲君主制への大転換を実現します。
前王時代の浪費で国家財政が悪化したこと、世界中から絶対王政が消滅していること、議会制民主主義の必要性が声高に叫ばれるようになったことを背景として、さらには1929年に起きた世界恐慌に対する痛みを伴う経済政策を機に、絶対王制への不満が高まります。
この頃、官費でフランスに留学していた、後に首相となる、陸軍のピブーンやプリーディーらが”人民党”を結成します。
人民党は立憲革命によりタイの政治体制を変えることを目的としており、やはり立憲君主制の実現を模索していた軍人を秘密裏に集め、1932年にクーデターを起こします。王族を人質に取り、王に立憲君主となることを要求、最終的に王はこれを受諾し臨時憲法に署名します。
翌日新内閣が発足し、絶対王制が幕を閉じます。

クーデターによる政変

立憲君主制への転換はクーデターにより実現しましたが、この後もクーデターによる政権交代が頻発します。
翌年には早くもクーデターが起き、これを含め、1933年、1947年、1949年、1951年、1957年、1958年、1971年、1976年、1977年、1991年、2006年、2014年と、立憲革命後80余年の間に実に12回を数え、しかもそのうち10回も成功しています。
これは、ひとつには、立憲革命自体軍人が起こしたもので、軍自体が政治に密接に関与し、軍事力とともに発言力を持つことが挙げられます。
選挙で選ばれた文民政権でさえも、軍の要求をある程度飲まなければ、不満を持った軍がクーデターを起こしかねないため、軍が一定の発言力を持てるよう配慮せざるをえない、というある種の悪循環が存在していると言えます。
もっとも、軍も成功の見通しがなければクーデターは起こせないわけで、政情混乱の解決を国民が望んでいるという大義名分や対抗勢力の有無、指導者の軍の掌握度合いなど、複雑な条件が全て揃うことが前提です。
現在の軍事政権は、これまでのところ国民からまずまずの評価が得られているようですが、選挙による新政府への移行はまだ先のこととなりそうです。

 
2014年のデモ集会場。車の奥にはテントが並び、大勢が集まっています。
 
その後。軍事政権に移行しましたが、街は平時の状態に戻りました。

今回は以上で終了です。次号はタイの現地の様子をお届けします。
では次号でまたお会いしましょう。

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