2020.02号 台湾編(3)

皆様こんにちは、株式会社コアブリッジの柳です。
今号は台湾の歴史の続きです。

前号での「清(による)領有時代」の後、日本支配に移るところから、引き続き思い切り要約して記します。

日本支配時代

1871年、宮古島の住民が台湾南部に漂着し台湾先住民に殺害されるという「牡丹社事件」が起き、この事件の解決を名目に1874年に台湾に出兵し、南部を占領します。日本は清との講和により台湾から撤退しますが、その20年後の1985年には、日清戦争の戦利として、下関条約(日清講和条約)によって台湾は日本に割譲されます。
台湾を領有した日本軍は、ここから現地民の継続的な抵抗に遭い続けることになります。
日本の台湾総督は、樺山資紀、桂太郎、乃木希典、のように継がれていきますが、腰掛け程度です。次の兒玉源太郎、その後の佐久間左馬太の総統時代に、総統を補佐し政策実行を行う民政局長(民政長官)として後藤新平が就任し、ようやく台湾経営に本腰が入ります。
後藤は、軍隊ではなく警察網による反乱の鎮圧、台湾の慣習の調査、人口調査、インフラ(建物、港湾、鉄道、電気、水道、通信)整備、銀行の設立と紙幣の流通、水利灌漑事業と農業振興、教育機関の設置、等を進めます。しかもこれらを原則として台湾の住民を主導することで推し進め、台湾自身で運営し、稼げる状況に持っていき、領有後10年で、日本からの補助金に頼らず台湾が自力財政で経営できるようにしたのです。
その後も台湾の成長は続き、近代化においては中国に大きな格差をつけます。
時代は1900年前半、大正デモクラシー、第一次世界大戦後の被植民地の民族自決、ロシア革命など、世界的にも様々な運動や革命が起きていました。
台湾住民の抵抗は、徐々に武力行使から政治運動に変わっていきます。自治の獲得と、その先の独立を目指して抵抗運動が盛んに行われるようになります。

国民党政権

1945年の日本の敗戦で、日本軍は台湾から引き上げ、代わりに中華民国政府(国民党政権)が台湾を接収します。
ポツダム宣言により、日本軍は蒋介石大元帥に投降することとなり、蒋介石麾下の中国国民党軍が台湾に入ってきます。
ここから台湾は国民党政権の支配下に移ります。
この頃、中国本土においては、国民党と共産党が内戦(第二次国共内戦)に入っていました。
前述の通り、台湾に入ってきたのは国民党の軍です(日中戦争で日本軍に交戦していたのは共産党ではなく国民党)。
国民党政権は日本が残していった財産や制度を我がものとしたうえ、強奪、狼藉等汚濁と腐敗は甚だしく、台湾人は大きく失望します。「犬が去って豚が来た(日本軍は役に立ったが、国民党軍は欲望を貪るだけである)」と言われたほどです。

日中戦争(1937-1945年)と内戦で崩壊寸前の中国は、食料確保のために台湾の米や砂糖を買い叩き、台湾元と中国元の為替レートを不当に低いレートに固定し、あっという間に台湾は食料不足と経済的困窮に陥り、失業者は増大し、治安も悪化します。しかし国民党政権は何の打開策も打たず、台湾人の不満は頂点に達します。

台北市中山堂。元は台北公会堂と呼ばれ、日本敗戦時に降伏調印式が行われました。
中華民国総統府。日本統治時代は台湾総督府として使われていました。

白色恐怖

1947年2月28日、前日に起きた事件(密輸タバコを販売していた女性に官憲が暴力をふるい、周囲に集まってきた民衆に対する威嚇発砲で死者が出た)がきっかけで、台湾全土の規模で大暴動が起きます。「二二八事件」です。
国民党は虐殺により事態を鎮圧しますが、事件後も、反政府の人間や指導者をあぶり出し、弾圧や処刑を続けます。これは白色恐怖(白色テロ)と呼ばれます。「白色」はフランス王権の象徴である白百合に由来し、権力者/為政者を意味します。
恐怖政治と武力によって人々を無理やり押さえ込み、政府に都合の悪い人間を不法逮捕し処刑し続けました。同国民を殺戮するという、極めて愚かな行為が台湾でも行われていたのです。
台湾全土に戒厳令がしかれ、1987年に解除されるまでの38年間という期間は世界最長です。

台北市の総統府の向かい、二二八公園の斜向かいに建っている「白色恐怖政治受難者紀念碑」。
台北市にある馬場町紀念公園。白色恐怖の時代には処刑場でした。

近現代

中国本土での国民党と共産党の内戦は、1949年に共産党の人民解放軍が首都南京を制圧して共産党が勝利を収めます。
中国共産党は中華人民共和国を建国し、国民党は政府機構を台湾に移し、台北市を臨時首都とします。これにより「二つの中国」が生まれたわけです。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、米国が第七艦隊を台湾海峡に派遣し、また、人民解放軍が朝鮮戦争に介入していたため、これを契機として中国と台湾の軍事抗争が止みます。
台湾に逃れて名目上は中華民国の政権を維持した蒋介石と息子の蒋経国は一党独裁の政権を続けますが、1979年の美麗島事件(高雄事件。世界人権デイに行われた反体制デモと治安部隊の衝突による騒動。逮捕された指導者には、現在の与党である民主進歩党(民進党)の中心人物が複数含まれていた)をきっかけとして、政党結成を容認して独裁を終結し、民主化に舵を切ります。蒋経国の後に総統に就任した李登輝は総統を直接選挙により選出するよう改定し、1996年には国民による総統選挙に移行します。
2000年の選挙では国民党は民進党に敗れ、初めて下野します。2008年には再度与党に返り咲きますが、2016年以降は民進党が再度政権を取り、今日に至ります。つい先日の総統選挙で民進党の蔡英文氏の続投が決まったのは周知の通りです。

日本とは正式な外交はありませんが、地震や水害などの災害時に真っ先に救いの手を差し伸べてくれてきたのが台湾で、世界で最も親日の国であると言えます。
台湾総統選挙では「一国二制度は断固として拒否する」と声高に主張した蔡英文総統が続投になりました。
昨年の香港動乱を背景に、中国との関係をどのように落ち着かせていくのかに焦点が集まります。


台湾編は以上で終了です。

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