2018.08号 香港編(1)

皆様こんにちは、株式会社コアブリッジの柳です。
今回から東アジアに移ります。初回は香港編です。
まずは、歴史から触れていきます。

"香港"以前

元々は広東省の最南端に位置する、土着民が暮らしていた地域で、秦や漢の時代に中原の支配を受けるようになり、同時に漢族が移住してきます。
宋の時代以降は、北方から侵攻してきた女真族(金)やモンゴル(元)が中国を支配したことに伴い、漢族の南方への移住はますます増えてきます。
16世紀(明の時代)になると、ポルトガルが来航し、貿易の中継地点として便利なこの地を占拠する事件が発生しますが、明はこれを駆逐し、ポルトガルはマカオに移っていきます。
清の時代になり開港すると、イギリスの東インド会社などが来航するようになり、商館が建てられます。
イギリスは、支配下のインドを含めて、清→イギリス(茶)、イギリス→インド(綿織物)、インド→清(銀、後に阿片)の、いわゆる三角貿易を行います。
イギリスの貿易は、インドとの間では黒字、清との間では赤字、合計すると赤字でした。対清の赤字を埋めるべく、インド→清に当時の国際通貨である銀を支払っていました。この状況を打開したいイギリスは、インドで生産された阿片(麻薬)を清に密輸し現金(銀)化します。
清では、大量の銀がイギリスに流出し、阿片中毒が蔓延したため、阿片の密輸を厳しく取り締まり、これがきっかけでアヘン戦争が勃発します。
結果として、イギリスが勝利し、1842年の南京条約で香港島がイギリスに譲渡されます(※現在の"香港"は「香港島」「九龍」「新界」の三地域からなります)。
"香港"という名称は、19世紀初め頃から、イギリスによる地形調査において香港島を指す名前として使われるようになりました。

イギリスの植民地時代

香港島がイギリスの直轄領になった後、清ではイギリス排斥の風潮が高まり、事件が多発し、イギリスも対抗する体制を整えていきます。イギリス船籍のアロー号への臨検(条約違反の調査のための強制立ち入り検査)をきっかけに、イギリスは第二次アヘン戦争(アロー戦争)を起こし、これに勝利します。今度は北京条約により香港島の南側の九龍半島の割譲を受けます。
清は二度のアヘン戦争に負けただけでなく、その後アジアに進出してきたフランスとの清仏戦争でも敗北し、ベトナムの宗主権を剥奪され、弱り目に祟り目の状態です。そんな状況で、イギリスは、九龍の南側の新界地域の租借(99年後に返還する)に成功します。イギリスは三度に渡り徐々に領土を獲得していったのです。
イギリスは香港を自由貿易港とし、輸入品に対して無関税としました。これにより世界中の商社が香港に進出してきます。

銅鑼灣(Causeway Bay コーズウェイベイ)のヴィクトリア公園にあるヴィクトリア女王像

日本軍統治時代

1937年に日中戦争が始まり、1941年には日本軍が香港を占領し、終戦まで日本軍の統治下に置かれます。
統治しやすいように人口を減らす意図での半強制疎開、香港ドルの使用を禁止し日本軍発行の軍票への切り換え、日本語教育の導入、主要道路の日本名への変更などが行われました。また、生活のあらゆることが日本軍の管理下におかれ、市民の生活は維持が難しいほど困窮していきます。
しかし日本軍が行ったことはそれだけではなく、イギリス軍との戦闘によって停止状態に陥った経済や文教・福祉政策を復興させ、許可制による企業の再開、総貿易体制の再構築、学校の再開、福祉事業の再開なども実行しています。
終戦により3年8ヶ月の日本軍の統治は解かれ、再びイギリス領に戻ります。

九龍のメインストリートのネイザンロード(彌敦道)。日本統治時代には"鹿島通り"に改名されていました
第一次世界大戦と第二次世界大戦での犠牲者を弔うために建てられた平和記念碑

戦後の香港

戦後の中国は、国民党と共産党の内戦、中華人民共和国の建国、大躍進運動(毛沢東による工業・農業の大増産政策。失敗し2,000万人の餓死者が出る)、文化大革命(実質、文化大革命を失敗した毛沢東の復権と政敵失脚のための権力闘争)、など混乱が続き、難民が発生しますが、香港政庁(イギリスの植民地政府)は合法・不法によらず、難民を受け入れます。戦後の香港の著しい経済発展に伴い、労働力が必要であったこともその一因です。
しかし、庶民の生活は苦しく、政府の福祉や弱者対策も不十分で、暴動が多発します。香港政庁は、社会福祉の拡大、公共住宅の建設、無料の義務教育、公的支援の提供、交通インフラの整備、労働関連法規の制定、汚職取り締まりなどを行い、改善していきました。これには、1997年の新界の租借期間満了後を見据え、優れた統治を行うことで中国との交渉を有利にするため、という打算もありました。返還時期が迫る中、イギリスはこれまで中国共産党政権からの圧力によりためらっていた民主化を決断します。普通選挙を実施し、民主化を進めます。折しも、天安門事件(民主化を求める一般人デモ隊を軍が武力で鎮圧した事件)が発生し、香港内で中国返還への恐怖が生まれ、イギリスは中国に対し民主化の必要性を訴え、中国政府も一応それを飲みます。

中国への返還

イギリスは新界の租借期間満了の1997年以降も香港の統治を続けることを希望しますが、中国の最高指導者鄧小平はそれを受け入れません。当時の中国は、台湾(中華民国)に代わって国連代表権を獲得したばかりで、台湾問題の解決策として、社会主義の中に資本主義の体制を含む「一国二制度」を目論んでいて、まず香港をそのモデルケースにしようとしていたためです。
北京でのイギリスのサッチャー首相と鄧小平との会談で、鄧小平が強硬な態度を示し、サッチャー首相が心労により会談後に転倒したという有名な話と映像が残っています。イギリスは香港統治の継続を断念し、1997年に香港は中国に返還されました。本来は返還対象は新界のみですが、香港島と九龍半島をあわせた三地域は事実上分離不可能であり、この時代に植民統治を続けるべきかという国際世論もあり、イギリスは三地区全てを返還したのです。
返還後も、香港と中国大陸との間の隔たりは大きく、雨傘運動(※)に代表されるデモが頻発しています。

※2014年に起きたデモ隊と警察との衝突。非民主的な選挙制度導入決定に怒った学生らが、警察からの催涙弾を避けるために雨傘を持ってデモに参加したことが名前の由来
 

今号は以上で終了です。
ではまた次回お会いしましょう。

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