2017.10号 カンボジア編(3)

皆様こんにちは、株式会社コアブリッジの柳です。
今号は前号に引き続き、カンボジアの歴史についてお届けします。
フランスからの完全独立を果たした後から現在までを記していきます。

1953年にフランスからの完全独立を果たしたカンボジアですが、直後の1955-1973年にはベトナム戦争があり、終戦後の1975-1979にはポル・ポト政権による恐怖政治が待ち構えています。

背景

1945年の日本軍撤退後にフランスがインドシナの支配者として戻ってくると、抗仏独立運動が拡大し、ベトナムとフランスの間でインドシナ戦争が勃発します。
フランスはカンボジアとの間には協定を結び、カンボジアでは憲法制定や政党結成が許され、フランスへの留学者が何人も出ます。この中に、後に自国民の大虐殺を行うポル・ポト(本名サロト・サル)も含まれています。ポル・ポトはフランス留学時代に共産主義に傾倒し、カンボジアがフランスから完全独立を果たした1953年に帰国し、共産党に入り、組織の頂に登っていきます。
ベトナム戦争については、「ベトナム編(1)」で触れていますが、ソ連・中国の支援を受ける北ベトナムと、アメリカの支持を受ける南ベトナムによる、米ソの代理戦争と言えます。ベトナムに隣接するカンボジアやラオスでも同様の状況が起きます。
共産主義を抑えたいアメリカは、北ベトナムを叩き潰すための味方(傀儡政権)をあれやこれやの手で作ったためです。
米国の攻撃対象は、北ベトナムだけでなく、北ベトナム側の物資や人員を戦地の南ベトナムに運ぶ補給路”ホーチミン・ルート”も含まれます。ホーチミン・ルートは北ベトナムから南ベトナムまでを迂回する経路であり、ラオスとカンボジアを通ります。このルートの攻撃(爆撃)を容認してくれる傀儡政権が欲しかったのです。

独立直後

1960年代後半までは”独立の父”ノロドム・シハヌークが独裁政治を行うのですが、後のポル・ポト政権時代と比べれば比較にならないほどマシです。
シハヌークは中立外交政策を取っていたものの、ホーチミン・ルートの存在を許容し、米国の爆撃を非難していたため、アメリカからは敵視されます。
1970年、アメリカに担ぎ上げられたロン・ノル将軍がクーデターを起こし、シハヌークを追放、シハヌークは中国に亡命します。
ロン・ノル政権はアメリカの傀儡でお粗末な政権でした。反ベトナム活動を展開し、自国内のベトナム系住民を迫害し、米国が北ベトナムを攻撃するためにカンボジア領内に侵攻することを許します。これによりカンボジア国内の空爆等の被害は甚大になり、200万人の難民が発生します。
中国に亡命したシハヌークは亡命政権「カンプチア王国民族連合政府」を結成し、それまで反目していたカンプチア共産党(クメール・ルージュ。ポル・ポト派。”カンプチア”とは”カンボジア”のこと)と手を組み、『解放勢力』を結成し、ロン・ノルに対抗姿勢を見せます。同じ敵(米国)を持つ北ベトナムも賛同します。こうしてカンボジアは内戦に突入していきます。

プノンペン中心部にある”独立の父”ノロドム・シハヌークの像。右下に見えるのは独立記念塔。
その近くの公園にある、カンボジア・ベトナム友好の塔。

内戦

ベトナム戦争の北ベトナム(中国支援)と南ベトナム(米国支援)の関係が、カンボジアにおける『解放勢力』(中国支援)とロン・ノル政権(米国支援)にあたります。
『解放勢力』&北ベトナムの連合軍と、ロン・ノル&米国連合軍との戦いは熾烈化しますが、最終的には前者が勝ち、1973年に米軍と北ベトナム軍は撤退します。しかし、『解放勢力(ポル・ポト派)』はロン・ノル軍への攻撃を続け、1975年に首都プノンペンを陥落させ、内戦を収めます。これをポル・ポト派は「解放」と呼びます。北ベトナムが南ベトナムを負かす1ヶ月前のことです。

ポル・ポト政権

「米国を退けた」「ベトナムよりも先に国内統一を果たした」「史上最高の革命を成し遂げた」という”思い込み”が暴走を生み、ポル・ポト派は荒唐無稽な恐怖政治を行います。
内戦を終わらせプノンペンに入城してきたポル・ポト派を市民は歓迎しますが、文字通りその直後から悪夢が始まります。
ポル・ポト派は以下を行います。
・国民を都市部から農村部に強制移住させ農業に従事させる
・他国を一切頼らない完全自主独立を目指し鎖国した
・貨幣の廃止
・機械の使用禁止
・仏教の禁止と僧侶の迫害
・旧体制、旧文化、外国文化の廃止と禁止
・党に反対する者、スパイとみなされる者、知識人を処刑する
・家族制度の廃止(知識に汚されていない子供を親から離して生活させ洗脳する)
・自由な婚姻の禁止(党が決めた相手と結婚する)
・徹底した秘密主義で政権を運営する(ポル・ポトがトップだとわからないようにした)
・シハヌークを幽閉し、傀儡にして利用した
・カンボジア内で何が行われているか国外に分からないように隠蔽した

全国170か所に収容所を設け、反革命分子と見なした人達を連行し、拷問による自白を強要した後に、国内340か所に存在した虐殺場(キリング・フィールド)で処刑しました。集団墓地は19,400か所あると言われています。
プノンペン市内にある通称”トゥール・スレン”(暗号名:S-21)がそれら収容所網の極秘センターとなり、この残虐非道の行為が続けられました。トゥール・スレンだけでも12,000-20,000人が収容され、確認されている生存者はわずか12名です。

ポル・ポト政権の崩壊

1975年の「解放」までは北ベトナムと手を組んでいましたが、解放後からは国境地帯で武力衝突が頻発し、ベトナムと対立が生じます。
ベトナムは中国と関係が悪化していて、中国の支援を受けていたカンボジアとも必然相反します。
1978年、カンボジアのベトナム国境付近で、ポル・ポト政権打倒を目指す「カンボジア救国民族統一戦線」が結成され、ヘン・サムリンが指揮します。ヘン・サムリンはベトナム軍と共に大攻撃を行い、翌年初頭に首都プノンペンは陥落、ポル・ポトらはタイ国境のジャングルに逃走します。こうしてポル・ポト政権は終わります。1975年時点の人口789万人に対し、その2割以上の150-200万人が殺されました。ポル・ポトが政権を握った3年8ヶ月20日間に、毎日1,100人以上を死に追いやった計算です。

トゥール・スレンS-21。元は高校の校舎で、クメール・ルージュにより拷問所として使われました。現在は虐殺博物館として公開されています。
シェムリアップにあるキリング・フィールド。中央の建物には遺骨が収められています。

ポル・ポト後

1979年、ヘン・サムリン首相による親ベトナムの政権「カンプチア人民共和国」が発足します。しかし、ベトナムの傀儡政権では他国から国家として認められません。カンボジア国内でも複数の反政府勢力との間で対立が残ります。この後国内および18ヶ国との間で様々な交渉が続けられます。
ようやく1991年にパリで和平協定が結ばれ、翌1992年から国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による平和維持活動が行われます。1993年に国連の監視下で総選挙が行われ、ラナリット(シハヌークの息子)が第一首相、フン・センが第二首相の体制となり、新憲法が発布され、ノロドム・シハヌークを国王とする「カンボジア王国」が正式に発足します。
1999年にはASEANに加盟します。現在の10ヶ国の加盟国の中で、最後の加入です。

カンボジアの歴史編は以上で終了です。
ではまた次号でお会いしましょう。

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