2017.09号 カンボジア編(2)

皆様こんにちは、株式会社コアブリッジの柳です。
今号と次号の二回にわたって、カンボジアの歴史についてお届けします。

カンボジアの歴史については、正確に分かっていない部分が非常に多いのですが、大きく「プレ・アンコール期」「アンコール期」「ポスト・アンコール期」「植民地時代」「現代」に分けることができます。
有力な王が国をまとめたかと思いきや、その王の死後には分裂し、それが繰り返されていきます。
また、王によって信仰する宗教も「大乗仏教」「バラモン教」「ヒンドゥー教」「上座部仏教」など変わっていきます。
今号では、古代からフランスによる植民地時代までを、例によって、思いっきり要約して記します。

プレ・アンコール期

現在のカンボジアの位置に、一世紀ごろに最初に現れたとされる国家は扶南(ふなん)です。メコン川下流域からチャオプラヤー川下流域を挟むような領土(現在のベトナム南部、カンボジア、タイ中央部)で、インドと中国を結ぶ中継地にあたり、交易都市として栄えました。
六世紀頃にメコン川中流域に真臘(しんろう)が興り、当初は扶南の属国だったのですが、七世紀に真臘が扶南を征服します。以後、真臘はメコン川流域を中心にして栄えます。
八世紀になると、真臘は、メコン川の水路を使って交易を行う南部の”水真臘”と、陸路で交易を行う北部の”陸真臘”に分裂し、弱体化していきます。
この時代には、現在のジャワ島を中心とした勢力(シャイレンドラとかシュリーヴィジャヤーと言われますが詳細は不明)があり、真臘は一時的にこのジャワ勢力の支配下に置かれます。
この時に、ジャワに捕虜として連行された王子(ジャヤーヴァルマン二世)が、後に祖国に帰国して挙兵し、ジャワに打ち勝ち、独立を果たします。こうして、アンコール王朝が興こります。

アンコール期

ジャヤーヴァルマン二世がジャワからの独立を宣言して即位し、アンコール朝(クメール朝)を建てたのは九世紀初頭です。神王崇拝(王を神として崇めさせる)を推し進め、クメール人国家を統治します。
その後も、有力な王の代には国は繁栄していきますが、王の逝去や勢力争い、近隣諸国の侵攻などにより混乱が続きます。
隣接国や内紛を鎮圧し、アンコール王朝に安定をもたらしたのが、あのアンコール・ワットを建設した、スーリヤヴァルマン二世です。
12世紀のスーリヤヴァルマン二世の治世では、国内統一のみでなく、東はベトナム南部から西はミャンマー国境までの版図を治めました。

ご存知アンコール・ワット。12世紀にスーリヤヴァルマン二世が建立したヒンドゥー教寺院。
アンコール・ワット第一回廊南面にあるスーリヤヴァルマン二世の壁画

スーリヤヴァルマン二世の死後、御多分に洩れず反乱が起き、隣国との戦争も起きますが、甥のジャヤーヴァルマン七世が平定して、過去最大の版図を得ます。そしてこの時代に、アンコール・トムやバイヨン寺院(元は大乗仏教寺院、後にヒンドゥー化)が建設されます。
ちなみに、”アンコール”は「王都」、”ワット”は「寺院」、”トム”は「大きな」という意味で、”アンコール・ワット”は「王都の寺院」、アンコール・トムは「大王都」を意味します。共にアンコール遺跡ではありますが、アンコール・ワットはヒンドゥー教寺院(現在は仏教寺院として使われている)、アンコール・トムは城塞都市で、位置付けが異なります。
ジャヤーヴァルマン七世の死後、内紛、隣国との戦乱、大規模建築などによりアンコール朝は衰退していきます。タイの最初の王朝とされる”スコータイ朝”がアンコール朝から独立したのはこの頃です。
後に、スコータイ朝を併呑したタイのアユタヤ朝がアンコールを侵攻するようになり、15世紀についにアンコールの王都は陥落、600年に渡って続いた歴史に幕をおろします。

ポスト・アンコール期

タイのアユタヤ朝による占領により、クメール王族はアンコールを放棄し首都を移します。しかし、タイ(シャム)の侵攻は止まず、逃れるようにしてスレイ・サントー→プノンペン→ロンヴェック→ウドン→プノンペンへと、次々に遷都していきます。
ウドンに都をおいた17世紀から19世紀は、西のタイ(シャム)のみならず、東のベトナムからも侵攻を受けます。以降、フランスに保護領化されるまで、カンボジアはタイとベトナムの領地争いの対象として翻弄され続けることになります。

シェムリアップの繁華街にひっそりと立つジャヤーヴァルマン七世の像。
アンコール・トムの中心にあるバイヨン寺院。当初は大乗仏教の寺院として建設されました。

植民地時代

19世紀になると、フランスがインドシナ半島に侵攻してきて、ベトナムを始めとして植民支配を進めます。時のカンボジア国王ノロドムは、タイやベトナムの支配から逃れるため、また、国内の反乱を収めるため、フランスと保護条約を締結します。この後、太平洋戦争期に日本軍が進駐してくるまでの80年あまりの間、カンボジアはフランスの植民地となります。
1941年に日本軍が進駐してくるとほぼ同時期に、先王の死去によりノロドム・シハヌーク(ノロドム王の曽孫)が即位します。
シハヌークは、日本軍がフランスをカンボジアから追い出した1945年に独立を宣言しますが、日本の敗戦・軍撤退後には再びフランスの植民地に戻ります。
シハヌークはフランスからの独立運動を展開し、辛抱強くフランスに独立を求め、米国をはじめ諸外国を歴訪して国際世論にも訴えかけ、ついに1953年に独立を勝ち取り、「カンボジア王国」を成立させます。以降、シハヌークは『独立の父』と呼ばれます。
念願かなった完全独立ですが、カンボジアの前には世界史上最悪と言われる試練が待ち構えています。

今回は以上で終了です。次号も引き続きカンボジアの歴史をお届けします。
ではまた次号でお会いしましょう。

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